最近考えること

いい加減なタイトルですが,しばらく継続して書いてみます。

毎年,数人の学生を研究室で預かります。4年生の今頃,学生は就職のことで頭がいっぱいです。学科コースから言えば,エレクトロニクス関連の企業を考えるのが順当なところですが,公務員など専門と関連のない,全く別な職種を希望する学生もいます。4年間学んだ上での変更ですが,あるいは変更ですらないのかもしれません。今初めて選択をしているのかもしれないと思います。

大学受験でどこを受けるのかと考えるときに,大学の選択には悩むかもしれませんが,専攻(学科やコース)を決めるときには受験生はそれほど悩まないのではないでしょうか。得意な科目や,学科を紹介するパンフレット等の情報を考慮して,それほど悩むことなく決めているのではないかと思います。目の前にある選択肢の中から選ぶので,最良のものを選ぶだけです。

就職する際も学科に来ている求人の中から最良のものを選ぶと考えるなら,それほど悩む必要はないかもしれません。ただ面接では質問をされます。「君は何がやりたいのか」。自問もします。「自分は何がやりたいのか。何をやりたかったのか」。この問は選択肢から選ぶものではないので,答えを出すのは容易ではありません。もっと昔から,それは大学受験のときでもなく,もっと以前の子供の頃から考えるべきことではないかと思います(自分のことを振り返ると?)。

そんな風に考えるとき,現在の大学受験というシステムの弊害を感じます。大学入試に向けて,小中高と最適化が計られています。中高一貫教育もそのひとつです。中学で習う内容のうち,直接大学入試に繋がらない内容は手を抜いても良いという事情への最適化。高校受験がない分だけ早めに学習を終えて,最後の1年ぐらいを受験勉強に利用するという最適化。中高一貫校に限らず,受験に向けて余分なものを削除することになるのですが,それは何でしょうか。芸術関係でしょうか。ただ,将来自分が何をしたいのか,試行錯誤する時間も削除されている気がします。毎日何かに追われては,考える暇もない。それに「君は本当は何がしたいの。」というような問いは,試験には出ないのです。そして,そのままの状態で大学に入学します。ここで話が元に戻りました。

大学に入って,現在学んでいることに熱心になれないような場合,学生は自分が悪いと感じているように思えます。そのとらえ方は小中高での考え方の延長上にあるようです(勉強はやらなければならないものと考えてきた,その延長)。しかし本来何を学ぼうと自由です。加えて通常,熱心になれる対象は限られる。他の領域なら自分はまだまともかもしれないと考えても特別変なことではありません。むしろ,自分が何に対して熱心になれるのか,その対象を探した方が良い。それも子供の頃からずっと探し続けて,好きなことを一所懸命やる感覚を経験した方が良い。そうでなければ道に迷う。

要するに,あまり悩まずに選んだ専攻に熱心になれるわけがないのは道理だと思います。入試の間際になって何かを選んでも,それは選択したとも言えない。時間をもっとかける必要があると思うのですが,受験に最適化を計ったような学校では,試行錯誤を受け入れる余裕がないから,自分自身を見極めるような試みは不可能でしょう。

話は変わりますが,教育とはよく分からないものだといつも感じています。計画通りには行かない。そのため結果から考えるしかない。講義上では色々と義務もあるのですが,義務を果たすと言うよりは結果責任で考えるべきと思っています。理屈がないので色々と試みる。利用できるものは利用する。

自分の子供が通っていた学校に美術部がありませんでした。絵を描くことが好きな子供なので,非常に残念なことだったのですが,子供が人数を集めて美術部再開を嘆願しても,学校側は認めません。何かこれまでの経緯というのか,知らない事情もあるようでした。ただ,なぜ芸術を教育に利用しないのか不可解です。数学や理科,文学よりも古い人間の営みを,なぜ利用しようとしないのか。絵を描き,歌を歌い,踊りを踊る,人はそういう生き物だと思います。これには何の言い訳もいらない。これまでの時間がその価値を証明している。教育とは次元が異なる,より人の中心に近いものだと思います。

ただし,最適化を考えると,芸術は受験に必要のないものですね。教育は不可解なものですが,受験はきわめて明確なもの。いつまでに何をやるべきというスケジュールも立つし,合否の予測も可能です。人が何かを学ぶという不思議にふたをしてしまえば,取り扱いやすいものになると言うことでしょうか。

同じ教育という行為でありながら,片や不可解なものというイメージであり,片や非常に明確で分かりきったものとして取り扱われている。これは同じものなのか。見る人の立場の違いを反映した二つの解釈なのか。グラフや式を取り扱っているのだから数学をやっているのだろうとか,ニュートンの法則を使って計算をしているから物理だろうとか,そういった捉え方が最近怪しく思えてきました。

時々指摘されることですが,数学で習ったことが他の分野で利用できないという現象があります。物理で言えば,微分積分の利用が典型的な例です。以前電磁気学の講義で,積分を利用した解説をしたときに「なぜ面積を求めるのですか。」という質問がありました。その際,学生の中でそれぞれの科目が閉じているという印象を受けたのですが,もしそうであれば,受験における学習は,学問と言うよりも手段(あるいは方便)とでも言うべきものに変質しているのかもしれません。

また,後で書きます。

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